感性を磨く旅に出よう!

みなさまこんにちは^^
本日もありがとうございます!
そして、昨日通販、店頭、デリバリー共に、ご利用くださった皆様に、深く御礼申し上げます!
いつもうれしく想っております、ありがとうございます!
本日のお題は
「感性」についてです。
ここ最近、目に映る景色の中に、 個人的に、
「個性を感じる感性のほとばしるものを見受けることが少なくなってしまった。少し昔と違い、なんかどこかで見たことのある物ばかり・・・」と感じます。
物があふれ情報があふれ、 生み出す側もその情報に感化されることの影響でもあります。
風潮として、
人々はどこかで見たようなパターンを記憶し無意識に取り込んだものを生み出し、独自性と錯覚してしまうような循環を見受けることがあります。
皆、今目の前にある生活環境の中で生き、そこには情報が溢れすぎているのだから当然です。
無意識なら尚のこと、風潮・情報を避けたり遮断することは難しいですよね。
自分の感性に影響する様々な情報が受動的に脳に入る。
昔は生まれ育った景色や環境の中に、インターネットを通したオートマチックな受動性は少なく、
いつでも天然・自然との交わりが各家庭の環境には少なからず今よりも多くありました。
それは予測できない景色。
そして、それだけではなく、「情報を自分で取りに行った時代」
近年でもそれはまだ生きていました。
今は、自ら情報を取りに行く形が、どこでも指先ひとつです。
またリビングやどこかにいるときに、突然入りこんでくるメディア及びにコマーシャルから。
情報に触れるというものはそこで完結します。
とても便利な世の中です。
この利点の活用は沢山ありますよね!
けれど情報の取り方が変わるだけで、感性を表現する厚みにも影響を及ぼします。
その影響の正体は時間。
たとえば、
人は群れで移動をしてきたルーツがあります。
私たちの本能には移動により進化してきた記憶というものがあるんです。
情報を受け取るまでにさまざまな移動を繰り返してきた私達人間。
しかも便利になり、短い時間で遠くまで行けるようになった代わりに、長い時間や苦労をしてゆっくり移動するということは無くなっています。
そのような歴史と記憶を踏まえ、
現代の短時間で得れるもの距離・情報、
これは密接な関係で、
例えばいきなり寒いところから熱湯に入るようなもので、
その間のプロセスがないと、
自らの心の準備、意味を考え、想像すら深くはぐくむ時間が足りません。
感性を育てる時間は情報を得て育むまでというプロセスにより、
それが自分が表現したい理由や、魅力を感じる意味など、
深く考える時間をもたらしてくれます。
機関の余白・・・
また偉人といわれる人や哲学者等、
過去の歴史では暇な時間により何か新しい発見や哲学が生まれているのを知ると、
いかに考える時間が人には必要か?
とびぬけた何かを作るためには暇な時間が絶対的に必要なのだと・・・・
情報は早く入る分、
私たち現代人はいつもいつも忙しすぎます。
考える時間のなさを自覚できないほどです。
はるか昔移動を繰り返してきた私たちのご先祖と比べたら忙しさの質は勿論変わりますか・・・
そのころに比べ敵の数や生活に必要なものを得る方法など、生きる上での苦労がない今なのに、
なぜ現代はこんなにも忙しいのかと、
純粋に考えたりもします。
あきらかに、
時短で多くを手に入れられる分、
何かを手にするまでのプロセスにセットされていた時間、
余白(暇)
がなくなっているんです。
便利と引き換えに差し出しているものは、
自分の時間
です。
その賛否ではないですが、
その背景のお話として参考にしていただきたいものがございます。
現代の私たちの感性の退化に起因するもの
昭和後期、
ゲーム以前に、 プラモデルや塗り絵 この登場は子供たちに大きな影響を及ぼしました。
これは後の芸術家の思考を塗り替えてしまうものであった、と私は今でこそ思うのです。
昔私が子供の頃、塗り絵が流行りました。
私は初めて塗り絵を見た時に、 何が楽しいかわからない子供でした。
どんなものだろうかと好奇心はあるけど、 面白さには興味はわかない、わくわくしない。
そして、
私が小学生や中学生になったころ、私よりはるか小さな子供たちが手にしている塗り絵はもっと形式的になっていました。
細部まで細かいドレスを着た主人公・・・
その塗り絵をみて自分でその主人公を描かないで色を着けるという行為の先にある、達成感を見いだせないと感じました。
現代を生き、あの感覚は自分では正しいと思っています。
子供の最大の才能でもある想像力というものが一つの小さな箱に閉じ込められてしまうからです。
子供は自分の感覚を表現する練習中だけれど、 感性を、 想像を表に出すことはなんでもできるんです。
大人の物差しで見ると形を形成するのは未成熟に見えるかもしれませんが、 表現力は大人達より無限ですよね。
それを時代とするか?
塗り絵やプラモデルやパズルの楽しみはそれはそれであるとして、
もし感性を生かした状態で大人になる人たちを育てる社会ならば、 自然に沢山触れ、より多くの景色を見せることだと思います。
組み立てる事や色を配置することは
脳に与える意味等また別に特化することも必要なことであると思いますので、
それをする時期というのはもう少し大人になってからでも遅くないと個人的には認識しています。
月並みかもしれませんが、今は今の環境を見渡して、昔よりもその重要性を感じます。
無制限に広がる自分の本当の心地よいことを知る
それを培うのは子供のころの遊びの中身を知ることからは味まります。
野山に触れ季節を感じ、自分が知らない景色や世界をたくさん見る。
これほど人生を豊かに、 芸術的個性を最大限に発揮できる可能性を秘めているものはないと考えます。
そして子供に少しでも自然を感じさせてあげたいと安全を確保できる形ではありますが、
今、キャンプがブームですね。
家族との安心の野外でのひと時は心地の良いものですよね^^
けれどその流れも様々な問題があった上での今なので、
本来のキャンプの定義からすると、 事実、昔のキャンプと今のキャンプはまったくの別物となりました。
安全の確保、間違いなくやむを得ない時代背景です。
わが子に少しでも、より良い経験をと・・・親御さんの想いと苦労を考えると頭が下がります。
神経も使いますよね。
キャンプを楽しむ目的より、不安も大きいのではないかと想像致します。
さて、
今時代は時代とし、
昔のは少しの場として程よい広場の確保のみ、整備されすぎていない自然のなかっでのキャンプが一般的でした。
初めて会う川、初めて会う木々、初めてあう山、海、その環境は、未知なる可能性を教えてくれます。
天然の草木、テントを張る場所は大きな岩がないようなところがある条件できれいね床が安定するポイントを探します。
そして知らない子供たちと出会い子供たちは冒険が始まります。
いつもなら食べないような食事、水を汲みに行き、そして火を起こすところから始まります。
大雨で退散を余儀なくされた深夜・・・
そんなキャンプの時もありました。
自分が子供のころ存分に、自然を経験する時間をギフトとして貰えたから、経験をしたから、こんなことを感じます。
予測できない人やモノや環境との出会いが何より感性を刺激してくれます。
その事前の情報は少なければ少ないほど、
体験時の刺激の影響もあり多くの感性が激しく揺さぶられます。
最近は、
テントをバルコニーやお庭、屋内に入れる世界観も流行ってきてますよね。
屋内でするのがキャンプでワクワクするという感性が主流になってしまったら、
キャンプの疑似体験であり、
本来のキャンプを体験した経験による刺激を知っている私は、
個人的にそれは塗り絵やプラモデルが登場したときと同じ感覚を受けてしまいます。
皆様はどうでしょうか?
お客様方の多くが子供のころに塗り絵をしてきた世代でもあると想像致します。
私と同じ世代の方々はもしかしたら、幼少のころ、塗り絵の登場に戸惑った方もいた方もおられるかもしれません。
けれど大切なこと、
その塗り絵の影響を過少せず自分を捉え、
そのものの活用方法を正しい場所に置くこと、
それを踏まえることで、
その塗り絵の外の景色は、 大人になっても知ることが出来ます。
そして自分の感性について深く考えることで今の殻を破ることもできます。
何よりも予測のできない小さいけれど大きなもの
が、必ずそこには存在します。
そして、虫の動きや自然の葉の揺れ方や、ほとんどの人が目も向けない小川や、小石の形や、 風の強さや、山の色、空気の味、そこに住んでる人日世の景色、
他にもたくさんありますが・・・・
大人達こそ、予測できないものに触れるには自然が一番です。
記憶や経験という過去のあたまではなく、感性で見てみてください。
虫の列を見てなにをしてるのかな? 何を考えているんだろう? どこに住んでいるのかな?
それは大人子供関係なく共通の興味を楽しむことが出来ます。
知識も培った大人にとってはまた新しい刺激があります。
形式の用意された世界を楽しむことは良い面もありますが、 皆と同じ、どこか固定化された概念が落ち着くという集団心理を思い出してみると、
改めて、自分に合った選択することが出来ます。
その外にあるものは孤独でしょうか? 自由でしょうか?
貴方が求めるものはありますでしょうか?
また最近、個性的だとされるファッション等、 少し昔とは異なり、情報で集積された、自分たちが個性的だと思っている多くのものが、
ドラマやアニメやそのキャラクターの影響を受けています。
情報化社会が故、それはどこか安心の世界観に点在しています。
※前提として、もちろん憧れとか好きを意識した選択、今の時代それを楽しむのもよいことです^^
けれど、 もし真の自分の個性を知りたいのなら、
自分の未知なる可能性を知り呼吸をするように表現したいのなら、
自然に目を向けることは大きな変化を及ぼします。
そして型にはまらず情報は最小限に、
大人達こそ旅に出ましょう。
分かりやすい芸術に関するお仕事以外にも、それは日々や人生の大きな影響を及ぼします。
群れで生きる環境だからこそ、自分の今を知り、 自分に合った栄養をうけとりたいですね。
私たちのお菓子はそのような観点で生み出してます。
私たちの感性に共感してくださる方は、ミロクのお菓子達や、ぜひこちらもご検討ください。
感性のかたまりのケーキは通販では冷凍でのお届けとなります^^
こちらよりどうぞ↓
ご注文ホールケーキ類 - miroku:sweets net
いつもありがとうございます(*´ω`*)
ご利用ご用命大きな励みとなっております!
皆様のお心に寄り添うことが出来るお菓子を見つけましたら、ぜひミロクをお楽しみいただけましたら幸いです。
通販店頭デリバリー共によろしくお願い致します。
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●私たちミロクがある根柢の理由
その起点は代表の私の、20代半ばのころの価値観にあります。
健康の問題や美しくあるためのダイエット、 ヨガやランニングなど健康的な生活を楽しむために、こまめに体を動かすライフスタイルを基盤に生活をしていました。
美しく健康であるために、健康的な若さ、思考の能力を持続したい、これから来る未来に、医療に対し過剰にお世話になる事なく、自身の周りの年配の方々の医療とのかかわり方を見て、若いうちに自らの健康を保ち生活することの必要性を考え、体に対する様々な面で、強く予防を願う想いをかかえて生活をしておりました。
そしてそのサイクルが馴染んでいたライフスタイルのルーティンのバランスが完璧だと思っていたころ、
安心安全という神話が大きく崩れる311・及びに原発事故がありました。
当たり前の環境や景色は、当たり前ではなくほんの数分後には、一瞬にしてすべてなくなる可能性が常にあるということを生まれて初めて知りました。
安心安全、どこか守られているものなどこの世界には一つもないのだと。
当たり前だと感じないほどの日常の当たり前が消えた日を起点に、
命について純粋に捉え、人間の思考や体が何でできているのか?
という観点で死生観はもとより生きてきた過程、選択の基準等、
自分の心のブラッシュアップ・探求がはじまりました。
結論として、
たとえ生活環境を揺るがす何かがあったとしても、
自分の力で日々生きていくために最低限必要な何かを維持するためには、
より深い食の在り方をとらえることが、最低限必要なことだと考えました。
この現代社会はある種、サバイバルそのものであると知りました。
自分が今までの人生で食べてきたものを改めて考え、 その中身は昔のほうがまだわかりやすい原料のものでも現代は非常に複雑化していることを深く知ります。
原料の表示義務がないものが多すぎることでそれが見えないことにより、思い込んだ安心感やそれほど危険だというものが入られているなんて考えていなかったこと。
私が強く抱えた想いは、
「信じるという土俵にないほど当たり前であった物事に裏切られたようなこのような喪失感を未来の大人達が味わう環境を少しでもなくしたい」
社会の現状は、
世の中には、 わが子に対して、当たり前に普通にみなと同じものを食べさせてきた結果を悔やみ、また、ご自身様の若いころの食生活を後悔している人々がいます。
逆に、苦しいが故に、自分の親が与えてくれた環境に対し、
無自覚であったことを攻めてしまう人々もいます。
前者の、
食の選択を親から全身で受け取る純粋な命に、
食の現状のリスクを知らなかったことにより、
お子様の成長の過程での健康について、申し訳ないと後悔している悲しみを抱えた親心に出会うことは非常に多いです。
そのようなお話を多く聞くことで、想うことは、
何が良い悪いではなく、
そうできているのだからやむを得ない社会だということです。
よほどのきっかけが自分の身近な存在や自分にないと、食の不信には気が付きにくい
という表現が正しいです。
そもそも不自由がなく、食に対し不信がない方には見識を信じてもらいにくいことから、
食に関する本質的な情報は、他者はなかなか教えてはくれないということです。
又、なによりも、
私たち人間のコミュニティという特性上、
自分の世界観に必要な情報を好み、選び、その中で生きているのだという、
死角の存在の影響です。
以上のような現象を踏まえ、
お悩みの方が誰かを責めてしまったり、過去を後悔している時間を可能な限り短くすることが出来るならばと、
私たちは、食のご提供を通して、少しでもお力になりたく想う日々の営業です。
そのうえで、
私たちは確固たる信念として以下のように掲げております。
●私たちミロクが目指す未来
1.食べたくても食べれない悲しみや苦しい想いをミロクの食で少しでも緩和させることで
一人でも多くの人やご家族様が喜びと笑顔に満ちる社会へ
2.人口の加工品を活用した緩和ではなく、その先の未来をきちんと捉えた自然の原料のみを使用し、
母親そのものような愛のある心を基準に創る真心の伝承
3.家族間の食による過去の後悔ではなく、これからの気休めでもなく、まぎれもなく
笑顔になれる未来への希望を作り上げるための食をクリエイトいたします。
4.純粋で素朴な味わいによる絶対的な味覚の共通認識を菓子を通して伝承し
健康意識の優性・劣勢等による意識格差による偏見や対立、分断のない社会へ
5.食に対する不信感がつのる社会での指針としての安心の創造
体に入れる食からの未来への不安
純粋に食を楽しむことが出来ない罪悪感に近い嫌悪感
そのような感情から人々が解放・終止符を打つような食の在り方を未来に残します
以上の五項目、私たちはミロクをご支持下さる皆さまと共に目指します。
あとがき
いつも私たちの食を愛してくださり誠にありがとうございます。
私たちは商業のからくりを捉え過剰なブームに乗りません。
社会のブームにおける問題は、常にそこではないことが多く、
過剰におかしな方向にミロクが逸脱していかないように、小麦のお菓子も製造しております。
それは小麦の歴史について考えたからです。
またブームには優性思想が誘発された環境が芽生えます。
情報の中で生きるとこれは避けられないことでもあります。
一つ芽生えると対局も誕生します。
対極にあるものはそれは同一で保たれるものだからです。
「対局同一」、異なるように見えても全く同じものという意味です。
ブームを起点に、例えば、
意識の高いに対して意識が低いとか、過敏であるに対して無知であるとかそのような対立構図です。
様々なことでもいえるのですが、
敬意を持ち尊重できるのがとても平和で成熟した大人の感情であると思うのですが、
常に対立構図が巻き起こる感情対感情とは、対する感情の存在を見下すことで互いの感情の正当性を保つためなのでしょう。
これは心の戦争です。
けれどその垣根を取り除くのは、双方が、
その外側の「おいしいよね」という共通認識できる感情であり、
よりピュアな本質的な作物のおいしさが双方を繋いでくれると、私たちは信じています。
母の味が兄弟の共通認識にあるようなもので、そのスケールは壮大です。
つまり私たちは、実は平和への探求心があり、日々ミロクという形でその追求をしております。
また、
世の中、お世話になっていた食が毒と呼ばれはじめたり、「あれダメこれダメ」と言われるものが多くなってきましたが、
それはテレビであれが良いというとそれが品切れになる現象と同じで、
自分で選んでいるのではなく、実際は情報により選ばされているという現象でもあります。
勿論その賛否をここで問うつもりはありませんが、
このまま思考が情報に縛られていくと
それは近未来、「食事という形の変容・新食事様式」を予期させてしまうものを秘めています。
むれになり皆で食を囲む習慣がある私たち人間にとって、
人間らしい生き方が基本で、 目的は、自分だけが健康でぴんぴんいつまでも生き延びることではなく、前提として人が目の前にある事、他者と酌み交わすひととき、過ごす時間です。
そのひと時が長く多く続くことを幸せの一コマと呼ぶのかと、そう思います。
目的が変わらぬよう考えた時に、 あれが悪いこれが悪いという情報の渦も、 自分の思考のバイアスが働くことだと思います。
自分のガイドラインを捉えて、その先に日々人間らしい生活があることが何よりです。
すべて排除されたキューブの食や液体の食事が常となることでつかめる人間らしい幸せはありますでしょうか?
その答えは皆様のおこころの中にあられます。
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●私たちミロクがある根柢の理由
その起点は代表の私の、20代半ばのころの価値観にあります。
健康の問題や美しくあるためのダイエット、 ヨガやランニングなど健康的な生活を楽しむために、こまめに体を動かすライフスタイルを基盤に生活をしていました。
美しく健康であるために、健康的な若さ、思考の能力を持続したい、これから来る未来に、医療に対し過剰にお世話になる事なく、自身の周りの年配の方々の医療とのかかわり方を見て、若いうちに自らの健康を保ち生活することの必要性を考え、体に対する様々な面で、強く予防を願う想いをかかえて生活をしておりました。
そしてそのサイクルが馴染んでいたライフスタイルのルーティンのバランスが完璧だと思っていたころ、
安心安全という神話が大きく崩れる311・及びに原発事故がありました。
当たり前の環境や景色は、当たり前ではなくほんの数分後には、一瞬にしてすべてなくなる可能性が常にあるということを生まれて初めて知りました。
安心安全、どこか守られているものなどこの世界には一つもないのだと。
当たり前だと感じないほどの日常の当たり前が消えた日を起点に、
命について純粋に捉え、人間の思考や体が何でできているのか?
という観点で死生観はもとより生きてきた過程、選択の基準等、
自分の心のブラッシュアップ・探求がはじまりました。
結論として、
たとえ生活環境を揺るがす何かがあったとしても、
自分の力で日々生きていくために最低限必要な何かを維持するためには、
より深い食の在り方をとらえることが、最低限必要なことだと考えました。
この現代社会はある種、サバイバルそのものであると知りました。
自分が今までの人生で食べてきたものを改めて考え、 その中身は昔のほうがまだわかりやすい原料のものでも現代は非常に複雑化していることを深く知ります。
原料の表示義務がないものが多すぎることでそれが見えないことにより、思い込んだ安心感やそれほど危険だというものが入られているなんて考えていなかったこと。
私が強く抱えた想いは、
「信じるという土俵にないほど当たり前であった物事に裏切られたようなこのような喪失感を未来の大人達が味わう環境を少しでもなくしたい」
社会の現状は、
世の中には、 わが子に対して、当たり前に普通にみなと同じものを食べさせてきた結果を悔やみ、また、ご自身様の若いころの食生活を後悔している人々がいます。
逆に、苦しいが故に、自分の親が与えてくれた環境に対し、
無自覚であったことを攻めてしまう人々もいます。
前者の、
食の選択を親から全身で受け取る純粋な命に、
食の現状のリスクを知らなかったことにより、
お子様の成長の過程での健康について、申し訳ないと後悔している悲しみを抱えた親心に出会うことは非常に多いです。
そのようなお話を多く聞くことで、想うことは、
何が良い悪いではなく、
そうできているのだからやむを得ない社会だということです。
よほどのきっかけが自分の身近な存在や自分にないと、食の不信には気が付きにくい
という表現が正しいです。
そもそも不自由がなく、食に対し不信がない方には見識を信じてもらいにくいことから、
食に関する本質的な情報は、他者はなかなか教えてはくれないということです。
又、なによりも、
私たち人間のコミュニティという特性上、
自分の世界観に必要な情報を好み、選び、その中で生きているのだという、
死角の存在の影響です。
以上のような現象を踏まえ、
お悩みの方が誰かを責めてしまったり、過去を後悔している時間を可能な限り短くすることが出来るならばと、
私たちは、食のご提供を通して、少しでもお力になりたく想う日々の営業です。
そのうえで、
私たちは確固たる信念として以下のように掲げております。
●私たちミロクが目指す未来
1.食べたくても食べれない悲しみや苦しい想いをミロクの食で少しでも緩和させることで
一人でも多くの人やご家族様が喜びと笑顔に満ちる社会へ
2.人口の加工品を活用した緩和ではなく、その先の未来をきちんと捉えた自然の原料のみを使用し、
母親そのものような愛のある心を基準に創る真心の伝承
3.家族間の食による過去の後悔ではなく、これからの気休めでもなく、まぎれもなく
笑顔になれる未来への希望を作り上げるための食をクリエイトいたします。
4.純粋で素朴な味わいによる絶対的な味覚の共通認識を菓子を通して伝承し
健康意識の優性・劣勢等による意識格差による偏見や対立、分断のない社会へ
5.食に対する不信感がつのる社会での指針としての安心の創造
体に入れる食からの未来への不安
純粋に食を楽しむことが出来ない罪悪感に近い嫌悪感
そのような感情から人々が解放・終止符を打つような食の在り方を未来に残します
以上の五項目、私たちはミロクをご支持下さる皆さまと共に目指します。
あとがき
いつも私たちの食を愛してくださり誠にありがとうございます。
私たちは商業のからくりを捉え過剰なブームに乗りません。
社会のブームにおける問題は、常にそこではないことが多く、
過剰におかしな方向にミロクが逸脱していかないように、小麦のお菓子も製造しております。
それは小麦の歴史について考えたからです。
またブームには優性思想が誘発された環境が芽生えます。
情報の中で生きるとこれは避けられないことでもあります。
一つ芽生えると対局も誕生します。
対極にあるものはそれは同一で保たれるものだからです。
「対局同一」、異なるように見えても全く同じものという意味です。
ブームを起点に、例えば、
意識の高いに対して意識が低いとか、過敏であるに対して無知であるとかそのような対立構図です。
様々なことでもいえるのですが、
敬意を持ち尊重できるのがとても平和で成熟した大人の感情であると思うのですが、
常に対立構図が巻き起こる感情対感情とは、対する感情の存在を見下すことで互いの感情の正当性を保つためなのでしょう。
これは心の戦争です。
けれどその垣根を取り除くのは、双方が、
その外側の「おいしいよね」という共通認識できる感情であり、
よりピュアな本質的な作物のおいしさが双方を繋いでくれると、私たちは信じています。
母の味が兄弟の共通認識にあるようなもので、そのスケールは壮大です。
つまり私たちは、実は平和への探求心があり、日々ミロクという形でその追求をしております。
また、
世の中、お世話になっていた食が毒と呼ばれはじめたり、「あれダメこれダメ」と言われるものが多くなってきましたが、
それはテレビであれが良いというとそれが品切れになる現象と同じで、
自分で選んでいるのではなく、実際は情報により選ばされているという現象でもあります。
勿論その賛否をここで問うつもりはありませんが、
このまま思考が情報に縛られていくと
それは近未来、「食事という形の変容・新食事様式」を予期させてしまうものを秘めています。
むれになり皆で食を囲む習慣がある私たち人間にとって、
人間らしい生き方が基本で、 目的は、自分だけが健康でぴんぴんいつまでも生き延びることではなく、前提として人が目の前にある事、他者と酌み交わすひととき、過ごす時間です。
そのひと時が長く多く続くことを幸せの一コマと呼ぶのかと、そう思います。
目的が変わらぬよう考えた時に、 あれが悪いこれが悪いという情報の渦も、 自分の思考のバイアスが働くことだと思います。
自分のガイドラインを捉えて、その先に日々人間らしい生活があることが何よりです。
すべて排除されたキューブの食や液体の食事が常となることでつかめる人間らしい幸せはありますでしょうか?
その答えは皆様のおこころの中にあられます。
皆様のお好みでミロクのコンセプトを感じていただけますと幸いです。
今後ともお引き立てご声援の程よろしくお願い致します^^
miroku
皆様のお好みでミロクのコンセプトを感じていただけますと幸いです。
今後ともお引き立てご声援の程よろしくお願い致します^^
miroku